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手向山八幡宮里帰りの記

「手向山さんが宇佐に里帰りするっちゅう話がありますねん」

と、真剣なまなざしで塗師の樽井宏幸氏が語りかけてきたのは令和六年の正月のことだったろうか。手伝ってほしいと乞われて、もちろんと即答した。

「里帰り」とはどういうことか。手向山八幡宮は大仏建立にあたり宇佐八幡宮から東大寺の鎮守神として天平勝宝元年に勧請された。八幡神と宇佐八幡宮の禰宜尼であった大神杜女(おおがのもりめ)は紫の御輿に乗って東大寺を訪れたと続日本紀にある。当初は平城宮梨原宮に鎮座、建長2年より現在の地に鎮まられている。奈良においては幾度かのお引越しはなさったものの、これまで一度も宇佐へ里帰りはなさらなかったようである。

上司延禮宮司がおっしゃるには、奈良の都と東大寺を御守りいただいてきた感謝の気持ちを宇佐神宮にお伝えする為里帰りをすることは先祖代々、特にお父様、お祖父様の念願であったという。その為には少なからぬ準備が必要で、中でも御神幸のための乗り物は必須。手向山八幡宮には平安期に製作された御鳳輦が三基あるが、重要文化財でもあり、秋の転害会での使用すら昭和35年には中断されてしまっていた。宇佐までの旅は望むべくもなかった。

平成14年。大佛開眼1250年を記念し宇佐八幡神輿御神幸が行われた。子供から大人まで宇佐市民が約500人、宇佐八幡神輿を奉じて東大寺を参拝。このときに「神輿発祥の地宇佐若宮神輿かつごう会」と繋がりができた。いつかは宇佐へ、の端緒ともなるべきご縁である。

乗り物を求めて模索の日々が過ぎていたが、平成30年、御鳳輦の新調が実現した。宮大工の速水浩氏と塗師の樽井宏幸氏のご尽力によるものである。この新調についてのご苦労のお話については当ホテルでひらいていただいたトークイベントでたっぷりとお伺いした。

令和7年は宇佐神宮御鎮座千三百年の記念の年。そこで、若宮神輿かつごう会から宇佐八幡神輿と手向山八幡御鳳輦とご一緒に宇佐神宮を参拝しましょうというお誘いがやってきた。今や立派な乗り物もある。ここで里帰りせねばなんとする。そこで樽井宏幸氏が御輿長をつとめることとなり、冒頭の発言につながる。

300キロの御鳳輦を宇佐で担ぐ人手を集めなければならなかった。もちろん転害会でご奉仕されている方は沢山おられるが、休日に宇佐まで行ける方を充分に集めるとなると新規の募集も必要。さすがは奈良である、心のこもった熱い担ぎ手が続々と集まった。

9月。1276年ぶりとなる里帰りは『宇佐神宮御鎮座千三百年奉祝手向山八幡宮御鳳輦総本宮参拝式』として正式に宇佐神宮より許可が下りた。

10月24日。御鳳輦は塚本運送のトラックで出発。フェリーでの船旅である。御輿隊と楽人の総勢約70名は25日に宇佐で集合した。初めて来た宇佐神宮は壮大なお宮で圧倒された。現地ガイドの方がご案内くださり、枕詞に「奈良の方に説明申し上げるのは照れ臭いのですが」と付け足しつつ東大寺とのご縁、道鏡、和気清麻呂、神仏習合、御輿の歴史と縷々丁寧にご説明くださって感激した。

10月26日参拝式当日。心配していた天気もみるみる雲が過ぎ去って行き、トラックから御鳳輦が降り立つ時には青空と太陽がまぶしかった。

先導の宇佐若宮の神輿の担ぎ手は白鉢巻に白襷、白股引でわっしょい!と屈強な人々だった。こちらは薄い紅色の狩衣に黄色の前掛、立烏帽子と雅やかなスタイルで好対照。室町時代の鉾が先導し、奏楽と共に出発する。

まず大鳥居の前に舞台があり、式典が行われ、蘭陵王も奉納された。大鳥居をくぐり朱塗りの太鼓橋を行く隊列の姿はまるで豪華な絵巻物。御鳳輦は長い道のりを行き、上宮への石段手前の鳥居前で御鳳輦と若宮神輿が並んで神事が行われた。ここからの石段はとても急で、担ぎ手の皆様には本当に辛かったろうと拝察するが、木々の中を行く姿の神々しさよ。とうとう上宮の華麗な西大門の扉が開かれ御輿長の指示に従い注意深く御鳳輦がくぐっていくのを見届けた時にはもう涙がとまらなかった。

御鳳輦が第二殿の前に安置された。1276年ぶりに元の神様の前に里帰りが叶ったのだ。神事が始まり、上司宮司が奉幣されているとき、突然デデポーポーとキジバトが鳴いた。ああ、神様が今喜んでおられると肌が粟粒立った。狭川普文長老、上司永照執事長、上司永観師によるバラバラ心経の気持ちの良いこと。

神事が終わり、本来あとは帰るだけのはずが、一同くるりと回廊の外に出る。鉾八本が第二殿の正面に四本ずつ立ち並び結界が張られた。御鳳輦がその中にお遷りになり、上司宮司のご発声。

「今日の御祭仕え終えぬれば八幡大神の御心のまにまにこの勅使門前の斎庭にて舞楽蘭陵王奉る」

龍笛が響き、蘭陵王が舞う。雲が沸き立ち、風が吹く。蘭陵王が舞っている。

 

御鳳輦をトラックにおさめたとき、待ちかねたように雨が降り出した。

打ち上げの会場では歴史に残る大事業を成し終えた男の人たちが美しい涙を流していた。樽井浩幸御輿長はこの日より名を樽井玄陽とあらためた、と聞いた。

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